太陽と緑の道コース№18 丹生会館-丹生山
2020.10.6.(火)コース№16,17と歩いてきて下山は「太陽と緑の道」コース№18をトレースすることにしました。丹生神社から麓の丹生会館までのコースです。
丹生山は史跡「丹生山城、丹生山明要寺跡」になっています。
丹生山明要寺は6世紀の頃、百済から渡来した童男行者が建立したのに始まります。
平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。
本図はその頃の偉容を伝えています。
その後、平清盛が京の比叡山になぞらえて堂塔を整備し、文亀3(1503)年に再興のため勧進が行われた際に参詣曼荼羅が制作され、清盛が寄進したと伝えられています。
清盛は雪の御所から毎月参詣し、福原京から続く参詣道を整備し、福原を起点に頂上まで丁石を建立したといわれています。
戦国時代には城塞化され、天正6(1578)年の三木合戦の折、花隈城との連携や、兵糧の運搬のために丹生山には砦が築かれ、近隣の野武士や農民ら500名余、及び備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎を従えて籠城しました。
これに対し羽柴秀吉は籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要したため、内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城しました。
明要寺はその後衰亡し、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、鎮守社の丹生神社が残ったようです。
(説明看板より)
都が福原のままだったり、三木合戦がなければこの山は一大聖地となっていたかもしれません。
城壁の跡が残る
ユウガギク ヨメナではないと思うが?
さて、この道はひたすら降りるだけなので、ブログのネタとしては何があるだろうか?と考え
1番丁石 丁石を撮ることにしました。
丁石は、南北朝時代のもので、「丹生山・明要寺参道町石群」として、神戸市指定記念物(史跡)に指定されています。
2番丁石?いきなり、しくじりました。撮ったつもりがデータが残っていない。おまけに3番がない。
義経道との分岐。このちかくに3番があったはず。
4番丁石 あれ?一つ飛ばしたかな?
宿題が残ったので次回登った時に探してみます。
5番丁石
6番丁石
7番丁石 頭がない
8番丁石
9番丁石
10番丁石
この橋がイラストマップにもある丹生山橋です 昭和16年という年号が見える。太平洋戦争が始まった年だ。
11番丁石
史跡の文字 国指定ではなく兵庫県の指定史跡
延命地蔵さん 右手が裏の参詣道
兵庫県指定の「ひょうご森林浴場50選」というのがあるのだ。語感が悪いな「ひょうご森林浴50選」でいいのに、何故、「浴場」としたのか?また、50箇所がどこか調べても出てこない。
12番丁石
門下橋 この左手にコンクリートの施設が残っています。何が昔あったのだろうか?
13番丁石
大日如来さん
14番丁石
15番丁石
16番丁石
鉱山道との分岐 鉱山というのは帝釈鉱山(長谷銅山)と呼ばれるもので、昭和40年代まで採掘されていた坑道跡をみることができます。
17番丁石
ここは旧道との分岐 左を行きます 「通り抜け禁止」の看板があります。
今まで見た中で一番大きいオオシロカラカサタケ
18番丁石
19番丁石
20番丁石
歩きやすい
21番丁石
22番丁石
23番丁石
24番丁石
竹林を抜けます
ここでコースも終わりかな?この下に丹生宝庫と丹生会館があります。
道の真ん中にあるこのお地蔵さんは何か?
実はこのお地蔵さんの下に25番丁石があります。
バス停(丹生神社前)のある鳥居まで来ました。
お腹もすいたので、近くになる浦商さんを訪ねてみました。
「当分の間、お休み」との張り紙があります。コロナ禍が影響しているのか。残念。